『万物の黎明』において語られることがらで特徴的な点は、今世紀に入ってからの考古学の成果や人類学の新しい知見が盛りだくさんなことである。これらの知見によって、これまで当然とされてきた通説に多くの疑問が投げかけられている。そのうちの一つが農業革命についてである。
私が抱いていた農業革命のイメージは、レバント地方およびチグリス川とユーフラテス川に沿ってペルシャ湾に至るいわゆる肥沃な三日月地帯と呼ばれる地域において、最終氷期の終焉とともに定住がすすみ、いったん寒冷への揺り戻しがあったが、その後野生種の小麦や豆類などを栽培・収穫を行うようになったというものである。そして農業革命によって人口が増え、巨石文化とともにヨーロッパを西進していった。農業革命の西進を受けた側は、ものすごいものを造る豊かな大集団が東からやってきたと、その文化に圧倒されていたのではないかと私は想像していた。
しかし、詳細な事実が積み重ねられると、状況はそれほど単純なわけではない。そもそも、この三日月地帯において植物の栽培化が完成するのに3000年を要している。この理由は、コムギ等の栽培化への遺伝子変異に時間がかかるからではない(最短で2~30年、長くてもせいぜい200年で済む)。栽培に手を染めてはやめ、やめてはまた始めるという狩猟採集民が多かったからである。まともに農耕に取り組むと、真剣に土壌を保全し、雑草を除去し、収穫後には脱穀等も必要である。この労力は、狩猟採集民のこれまでの活動をかなり阻害してしまう。比較的容易だったのは氾濫農耕で、これは季節ごとに氾濫する湖や河川の周辺で行われてきた。労働という点ではかなり容易なだけではなく、どこが栽培に適するかも年によって変化するので、土地の所有という習慣には結びつかなかったようだ。
しかし、農業が広まったのは低地かもしれないが、起源はこのような低地ではない。著者たちは、肥沃な三日月地帯を、高地三日月と低地三日月に分類しているが、高地三日月のほうが野生穀物の多様性が高かった。人々は、まず「管理的採集」を行い、そこから「半栽培」へと移行したと考えられる。実際、現在のトルコ東部やイラン西部の高地地域で、野生種と栽培種の中間的な植物利用の痕跡が発見されている。これらの作物が低地の氾濫農耕に用いられたわけである。コムギやマメ類などの栽培が、肥沃な低地三日月で単線的に始まったわけではない。高地は生態系が多様で、遊動的な生活と定住的な生活を柔軟に組み合わせることが可能で、人々は定住と農耕を短期的に試したり、中止したりする余地があったわけである。
そもそも農耕は、生存のための食糧生産のためというよりは、祭儀・遊び・季節的な実験として始まった可能性がある。つまり、急ごしらえの即席菜園で、女性たちが短期間だけ植物を育てる儀式に使われ、成長や収穫が重視されず、再生や生命の象徴として機能したわけである。農耕の始まりは、儀式的・余暇的に栽培を楽しむ中で発展したという点で、肥沃な高地三日月地帯は、「アドニスの庭」だったわけだ。