2025年7月24日木曜日

『万物の黎明』を読む(3)―農業革命とアドニスの庭

  『万物の黎明』において語られることがらで特徴的な点は、今世紀に入ってからの考古学の成果や人類学の新しい知見が盛りだくさんなことである。これらの知見によって、これまで当然とされてきた通説に多くの疑問が投げかけられている。そのうちの一つが農業革命についてである。

 私が抱いていた農業革命のイメージは、レバント地方およびチグリス川とユーフラテス川に沿ってペルシャ湾に至るいわゆる肥沃な三日月地帯と呼ばれる地域において、最終氷期の終焉とともに定住がすすみ、いったん寒冷への揺り戻しがあったが、その後野生種の小麦や豆類などを栽培・収穫を行うようになったというものである。そして農業革命によって人口が増え、巨石文化とともにヨーロッパを西進していった。農業革命の西進を受けた側は、ものすごいものを造る豊かな大集団が東からやってきたと、その文化に圧倒されていたのではないかと私は想像していた。

 しかし、詳細な事実が積み重ねられると、状況はそれほど単純なわけではない。そもそも、この三日月地帯において植物の栽培化が完成するのに3000年を要している。この理由は、コムギ等の栽培化への遺伝子変異に時間がかかるからではない(最短で230年、長くてもせいぜい200年で済む)。栽培に手を染めてはやめ、やめてはまた始めるという狩猟採集民が多かったからである。まともに農耕に取り組むと、真剣に土壌を保全し、雑草を除去し、収穫後には脱穀等も必要である。この労力は、狩猟採集民のこれまでの活動をかなり阻害してしまう。比較的容易だったのは氾濫農耕で、これは季節ごとに氾濫する湖や河川の周辺で行われてきた。労働という点ではかなり容易なだけではなく、どこが栽培に適するかも年によって変化するので、土地の所有という習慣には結びつかなかったようだ。

 しかし、農業が広まったのは低地かもしれないが、起源はこのような低地ではない。著者たちは、肥沃な三日月地帯を、高地三日月と低地三日月に分類しているが、高地三日月のほうが野生穀物の多様性が高かった。人々は、まず「管理的採集」を行い、そこから「半栽培」へと移行したと考えられる。実際、現在のトルコ東部やイラン西部の高地地域で、野生種と栽培種の中間的な植物利用の痕跡が発見されている。これらの作物が低地の氾濫農耕に用いられたわけである。コムギやマメ類などの栽培が、肥沃な低地三日月で単線的に始まったわけではない。高地は生態系が多様で、遊動的な生活と定住的な生活を柔軟に組み合わせることが可能で、人々は定住と農耕を短期的に試したり、中止したりする余地があったわけである。

 そもそも農耕は、生存のための食糧生産のためというよりは、祭儀・遊び・季節的な実験として始まった可能性がある。つまり、急ごしらえの即席菜園で、女性たちが短期間だけ植物を育てる儀式に使われ、成長や収穫が重視されず、再生や生命の象徴として機能したわけである。農耕の始まりは、儀式的・余暇的に栽培を楽しむ中で発展したという点で、肥沃な高地三日月地帯は、「アドニスの庭」だったわけだ。

 高地と低地の違いについて、さらに興味深い事実がある。高地三日月地帯では、狩猟採集民の時代から、季節性の可能性もあるとはいえ、すでにヒエラルキーが顕著だった。これは、ギョベクリ・テぺの巨石建造物などから推定される。氾濫農耕で農業の規模が大きくなった低地ではあまり階層化は見られず、これらの事実は、農業革命によって余剰食糧で養う官僚や神官が生まれて国家が形成され、階級社会が生じたという通説に大きな疑義を投げかける。人類は長い間、狩猟、採集、部分的な農耕、移動生活などの多様な生活様式を組み合わせて暮らしていたと推定できる。たしかに、帯通り、人類史の通説に大きな疑義を生じさせる著作であるといえるだろう。

2025年7月12日土曜日

『万物の黎明』を読む(2)―「不平等の起源」という想定の問題点

  大著である『万物の黎明』では、ホッブス対ルソーという対立を超えることが試みられているが、暴力だけではなく、不平等についても議論されている。ホッブス派は、不平等についてはあまり言及がないが、順位制を保った社会的哺乳類として進化した人類は、強固な不平等から始まって、文明化あるいは啓蒙によって平等という概念・社会が確立されたと、漠然と想定されている。一方、ルソー派によれば、人類は小集団のうちは平等だったが、農耕によって一集団当たりの人口が増え、食糧の余剰が神官や戦士、官僚などの非生産階層を支え、それによる階級化で不平等が生じてきたことになる。著者のグレーバーとウェングローは、ホッブス派に賛成しているというわけではないが、本書では、主としてこのルソー派の見解についての批判が行われる。彼らによれば、そもそも「不平等の起源」を求めようとするアプローチは意味をなさない。原始共産主義のような、太古に平等な社会があったという想定自体がおかしいのだ。

 彼らが提起した論点は3つある。第1は、生産の増大で人口が増えても、必ずしも集団が巨大化しなかったという点である。不平等は、巨大化とそれに必要な組織化の結果とされるので、人口の増大は必然的に不平等を生み出したわけではないということだ。彼らは、考古学的・人類学的証拠から、集団がむしろ閉塞化したケースが多いことを報告している。

 第2は、豪奢な副葬品や、神殿などを含む都市の遺構など、階層性や不平等の証拠と考えられてきた遺物が、必ずしも恒久的な不平等の証拠ではないという点である。たとえば、メソポタミアやインダスなどの初期の都市では、平等主義的な制度が維持されていた例が多いと推定されている。さらに彼らによれば、先史時代の狩猟採集社会や初期農耕社会において、季節ごとに平等・不平等についての社会的な仕組みが入れ替わることがあったようだ。つまり、ある季節には平等主義的な生活があっても、別の季節には首長や支配者が登場するような制度に移行するというわけである。副葬品の豪華さは不平等の証拠として考えられやすいが、一定の季節だけあるいは儀礼のときだけの身分差の現れであるとも推定されている。ましてや、それらが高位の世襲化の結果であるという結論を導くことはできない。

 第3は、これまで人類学者等以外にあまり知られていなかった、とくに北米先住民などの研究からの知見である。つまり、それらの文化では、農業革命が余剰生産物とそれによる貧富の差を生み、大規模な権力格差にむすびつくというこれまで考えられてきた法則に合わないことが起きていたわけである。たとえば、16世紀のフロリダのカルーサである。彼らは非農耕民であるが、かなり権力が集中していた首領がいた。また、17世紀にウェンダット族の首長であったカンディアロンクは、フランスからの移民たちに対して行った発言が記録に残っているが、フランスの自由のなさを批判している。ウェンダットによれば、貧富の差はあっても、それが権力格差に結びつかず、彼は自分たちの自由を高く評価していた。つまり、富イコール権力ではない文化が存在するというわけだ。北米の先住民たちは、しばしば「高貴な野蛮人」の代表のように思われていたが、決して愚かな民ではない。

 グレーバーとウェングローによれば、文明の進展に伴う不平等の拡大は、自然な進行ではなく、特定の歴史的条件や人々による選択の結果である。人間は自由と平等を選択する能力を持つ存在であり、私たちが想像するよりも、社会制度をはるかに創造的に構築してきたと強調している

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