9月2-3日、合理性についての国際シンポジウムを大阪公立大学杉本キャンパスで行った。このシンポジウムでは、2件のキーノートと、「合理性と非合理性」、「二重過程」、「協同」、「道徳性と合理性」および「文化的合理性」のセッションでの29件の口頭発表がすべて英語で行われた。また、Zoomを用いて世界に発信されている。
人間は合理的なのかという問題を議論すると、さまざまな疑問が思い浮かぶ。まず、「そもそも合理性の基準とされる規範理論は合理的なのか」という問題である。この問題に言及があったのは、Jean Baratginのキーノートである。従来、条件文推論の規範理論は命題論理学であったが、命題論理学では、条件文の前件 (p) が偽である場合に条件文を真とする奇妙な取り決めがある (たとえば、「もし日本の首都が京都ならば、明日の太陽は西から昇る」のような条件文が、真となるわけである)。そこでBaratginは、De
Finettiの「pが偽の場合は条件文の真偽判定外」という主張を取り入れて、確率あるいは不確実性を包括した規範理論システムの構築を試みている。なお、論理的推論以外では、規範理論を何に求めるのかについて、よりやっかいな問題が残されている。とくに、一般に「正解がない」と思われている、たとえば「少子化にどう対応すべきか」などのような複雑な不良定義問題については、主観的な「効用」という概念が導入されているが、これについての議論は本シンポジウムでは行われていない。
合理性は、直感的システムと内省的システムを想定する二重過程理論でも、「直感的システムの非合理的あるいは非規範的出力を抑制する内省的システム」という枠組みで捉えられる。Linden Ballのキーノートでは、この点が議論された。ヒトの認知が直感的システムから始まるのが基本的デフォルトだが、では、どのような条件でこの後 (あるいはこれと同時に) 内省的システムが起動するのか。この問題に対して、2つの概念が提唱されている。1つはメタリーズニングという概念で、これは、内省的システムが直感的システムの働きをモニターし、直感的システムだけではうまく対処できないと判断されると、内省的システムに認知的リソースを配分するという制御を行っていると想定される。もう1つは、内省的システムの起動を妨げる要因としての、FOR (feeling of
rightness: 正解感と訳しても良いだろう) という概念である。つまり、直感的システムからの自動的な暫定解についての判断がまず行われて、仮にその暫定解が規範的ではなくても、このFORが高いならば内省的システムが起動しないわけである。暫定解に矛盾が含まれていたりすると概してFORが低くなるが、それでは、なぜ規範解ではないにもかかわらず、FORが高くなってしまう場合があるのだろうか。たとえば、現代社会では非規範的であっても、脳が進化した何十万年単位の野生環境では適応的な解答である場合には正解感が高まる。さらに、このFORを引き起こすミクロな過程では、流暢性が重要な要因であると推定されている。つまり、何らかの課題に対して流暢に生成された解は、「流暢に導いたからには、おそらく正解だろう」という内省的システムの制御外の推論が働いて、FORが高くなると推定できる。そうすると、規範解ではないにもかかわらず、正しいと信じられて、内省的システムは起動しない。
いずれも、思考研究領域の最前線の成果の紹介だが、むしろこれらが結論というよりは、今後どのようにこれらの議論が発展していくのかを期待できるものだった。これらの発展をどこまで見届けられるかはわからないが、退職後も、これだけは細々とでも現役を続けたいものである。
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