2024年6月28日金曜日

10th International Conference on Thinking (2)―宗教的ビリーフにおける東洋人の弁証法

  ミラノのこの国際学会では、Cultural differences in religious belief, religious dialectical thinking, and the relation between thinking style and religious beliefというタイトルで私自身も個人発表を行っている。まだ論文になっているわけではないので、内容を紹介するのにちょっと躊躇もあるが、私自身、非常に興味深い知見を得られたと考えており、簡単に触れてみたい。

 私自身は、宗教についての心理学的研究を行ってきたわけではない。この研究で宗教を扱っている理由は、直感的システムと内省的システムを想定する二重過程理論における内省的システムがどの程度直感的システムを制御できるのかという問題について、直感的とされる宗教的ビリーフが材料として非常に好都合だからである。宗教的ビリーフは、もちろん必ずしも直感的なわけではなく、たとえば複雑な神学や宗教哲学などは、内省的システムを使用しないとなかなか理解できない。しかし、宗教は、その根本の、神あるいは万能者を想定するという点で本質的に直感的なのである。そして、宗教は内省的システムによる制御が難しいものの1つである。たとえば、お守りについて、内省的システムは迷信だと判断できても、粗末にするのは不安だというように、直感的システムが引き起こす情動的反応を完全に抑制することはできない。

 この研究は、日本人・フランス人・英国人を比較したものだが、この宗教的ビリーフについて比較文化を行う第一の理由は、宗教的ビリーフは弁証法的である可能性が高く、かつ東洋人は西洋人と比較して弁証法的思考を行いやすいということがこれまでの研究から主張されているからである。つまり、「お守りは迷信である」という陳述と「お守りを紛失すると不安だ」という陳述の両方に賛成すれば、その人は弁証法的だということになるが、東洋人が弁証法的だとすれば、日本人においてこの傾向が強くなると予測されるわけである。実験結果は、まさしくこの通りだった。日本人は、フランス人や英国人と比較して、弁証法的に宗教的ビリーフを迷信だと判断すると同時に、宗教的ビリーフにともなう情動的反応が生起していたのである。

 東洋人の弁証法について、さまざまな説明があるが、哲学的あるいは宗教的伝統の影響を受けているという指摘がある。たとえば、道教の陰陽思想では、陰と陽が表裏一体的に結びついているし、仏教では、それ自体が弁証法的である「空」という概念が、とくにナガルジュナの中論ではキーになっている。私も、仏教に詳しくなくても、「全ては存在する」という命題と「何も存在しない」という命題を弁証法的に受け入れているような気がする。

 仏教や道教の弁証法的思考の伝統が現代の東洋人を弁証法的思考に向かわせるのか、あるいは、東洋人に弁証法的思考を受け入れる何かがあって仏教や道教が生まれたのかはわからない。この問題に決着はつかないが、私の研究の成果は、この現代において、人々が科学を信奉すると同時に宗教を信ずるという弁証法性に何かヒントを与えてくれそうな気がする。

2024年6月22日土曜日

10th International Conference on Thinking (1)―全体的印象

  2024610-12日にミラノのビコッカ大学で10th International Conference on Thinkingが開催されたので行ってきた。この国際学会は、4年に1度、ちょうどオリンピックイヤーに開催され、世界の思考心理学のトップが集まるので、思考研究の最新のトレンドを知るためにありがたい学会である。元々は、英国のウェイソン選択課題で知られているPeter Wasonとその弟子たちが始めた学会で、私は、2000年にダラム大学で開催されたときに初めて発表した。そのあとは皆勤である、私を育ててくれた国際学会であるといえる。特に前回のパリでの大会はすべて遠隔となり、今回、8年ぶりに顔を合わせた人もいた。

 今大会の特徴は、神経科学系の発表が少なかったことである。2012年のロンドン、2016年のブラウン大学のときは、ニューロイメージングの発展に伴って、たとえばベイズ推論などの思考のミクロプロセスと脳機能部位との対応などの研究発表が多かったが、今大会では非常に少なかった。神経科学者にそっぽを向かれたのか、神経科学的還元主義では思考の本質にたどり着けないということなのか、その理由はわからない。

 個人発表、シンポジウム、キーノートも含めて、印象に残ったテーマは、フェイクニュースや陰謀論、地球温暖化および二重過程理論の深化と発展である。フェイクニュースと陰謀論、地球温暖化はこれまで思考研究の重要な領域の1つであるクリティカルシンキングのトピックとして扱われてきたが、ここへ来て、政治的分断の要因としてあるいは地球規模の危機として重視されるようになった。とくにトランプ現象に端を発するフェイクニュースと陰謀論が政治的分断に使用されている現実が、米国だけではなく、世界のいたるところで見られるようになったということで、実用的な研究として要請されている。これらのテーマは直感的システムと内省的システムを想定する二重過程理論によって主に扱われているが、つまり、フェイクニュースや陰謀論をなぜ直感的システムは信じてしまうのかという問題と、それを内省的システムがなぜ制御的ないのかという問題が議論されているわけである。

 二重過程理論の深化的発展にも興味深いものがある。二重過程理論では、かつては「人間は、こんなことを無意識で行っている」ということが議論の中心だったが、近年は、なぜ非合理的な信念を直感的システムが信じてしまいかつそれが確信を伴っているのか、内省的システムが直感的システムをどの程度制御可能なのか、さらには、内省的システムはどのようにして起動されるのかという問題が議論されるようになった。これらの問題を扱うキーとなる概念が、FOR (feeling of rightness 正解感) とメタ推理である。つまり、直感的システムによる解はそもそもFORを伴いやすい (直感的システムも脳の進化の産物である。実は概して合理的である)。そこになんらかの矛盾等をメタ推理が検出すると、内省的システムが起動しやすくなるというわけだ。

 思考研究は今後どのような方向に向かうのだろうか。近年瞠目すべきスピードで発展するChatGPTに代表されるAIとの付き合い方についての発表が散見されたが、今後10年の間にChatGPTとヒトの違いなどの研究が急増するのではないかと思う。

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2024年6月10日月曜日

日本認知心理学会優秀発表賞を受賞しましたー”Cultural differences in preference for enthymemes: A cross-cultural study of the Japanese, Koreans, Taiwanese, French, and British”

  61日と2日に帝京大学で第21回日本認知心理学会が開催され、私は昨年度の発表について、優秀発表賞 (国際性評価部門) として評価していただいた。学会の発表賞は、どちらかといえば新進の若手研究者が受賞するという印象が強く、この年齢になって今さらとも思うのだが、評価していただいたことは素直に喜びたい。それよりも年配になったら研究から引退するものだと自分自身の研究に自制気味の高齢研究者に対して、大きな励みになるのではないかと思う。

 ただし、表彰していただいた研究については、実は、海外の学術誌に不採択になってかなりフラストレーションがたまっている状態なのである。この研究は、Edward Hallの、西洋の低コンテクスト文化・東洋の高コンテクスト文化という区分の検証を試みたものである。コンテクストとは、コミュニケーション時に話し手と聞き手が暗黙の裡に共有される知識で、話されたことを解釈するのに利用される。このコンテクスト依存度に文化差があり、東洋では概して高く、高コンテクスト文化が形成されているというわけである。日本語は、阿吽の呼吸などのように、あいまいな表現で意味の伝達が可能だということで、高コンテクスト文化であるという実感があるが、多くの研究は言語学からのアプローチのもので、心理学の実証的な比較文化研究は少ない。

 そこで、私は、「省略」をキーワードにして研究を開始した。つまり、高コンテクスト文化では、コンテクストの使用度が高いので、その分、省略が可能になる。たとえば、日本語で主語の省略が可能な理由は、主語が明示的に述べられていなくても、コンテクストを使用して復元可能だからである。したがって、高コンテクスト文化の人々は、省略を受け入れやすいということになる。しかし、これを比較文化的に実証しようとすると難しい。たとえば、日本人と英国人に主語を省略した母国語の文を提示して受容度を測定し、日本人の許容度が高いことを示しても、文法的差異として一蹴されるだけであろう。

 そこで私が目を付けたのは、省略三段論法 (enthymeme) である。「すべての人間は死ぬ。ソクラテスは人間である」から「ソクラテスは死ぬ」を導くのが三段論法だが、この「すべての人間は死ぬ」を省略したものが省略三段論法で、この場合、「ソクラテスは人間である。ゆえにソクラテスは死ぬ」としても、ほとんど不自然ではない。ただし、この許容度に文化差があるのではないだろうかということで、日本人、韓国人、台湾人、フランス人、英国人からデータを収集した。さらに、「すべての人間は死ぬ」ならだれでも知っている陳述なので、知られていない、たとえば「すべての消しゴムには硫黄分が含まれている」のようなものも追加した。熟知度の低い陳述文だと、文化普遍的に省略は受容されないと予想したからである。この変数は、相手が何を知っているかに合わせて言い方をスイッチするコードスイッチングにかかわるものである。このコードスイッチングは、高コンテクスト文化の人々にみられる現象のようである。

 仮説は2種類ある。第1は西洋人と東洋人の区分で、東洋人がより省略三段論法を受容し、コードスイッチングを行うというものである。第2は、それに加えて、中国語は日本語や韓国語に比べて主語をはじめとする省略が少ないので、台湾人はおそらく日本人や韓国人よりもコンテクスト依存度が低く、これらの傾向が弱いというものである。実験の結果、省略三段論法の受容については、これらの仮説に何も言及できず、コードスイッチングについてのみ、英国人と台湾人が日本人、韓国人、フランス人より行わないことがわかった。コードスイッチングについては、西洋と東洋というより使用言語の影響が強いという解釈が可能で、私自身は個人的に興味深い。しかし、クリアな結果ではないだけにレビューアーに理解してもらうのは容易ではないのだろう。