ミラノのこの国際学会では、”Cultural differences in religious belief, religious dialectical thinking, and the relation between thinking style and religious belief”というタイトルで私自身も個人発表を行っている。まだ論文になっているわけではないので、内容を紹介するのにちょっと躊躇もあるが、私自身、非常に興味深い知見を得られたと考えており、簡単に触れてみたい。
私自身は、宗教についての心理学的研究を行ってきたわけではない。この研究で宗教を扱っている理由は、直感的システムと内省的システムを想定する二重過程理論における内省的システムがどの程度直感的システムを制御できるのかという問題について、直感的とされる宗教的ビリーフが材料として非常に好都合だからである。宗教的ビリーフは、もちろん必ずしも直感的なわけではなく、たとえば複雑な神学や宗教哲学などは、内省的システムを使用しないとなかなか理解できない。しかし、宗教は、その根本の、神あるいは万能者を想定するという点で本質的に直感的なのである。そして、宗教は内省的システムによる制御が難しいものの1つである。たとえば、お守りについて、内省的システムは迷信だと判断できても、粗末にするのは不安だというように、直感的システムが引き起こす情動的反応を完全に抑制することはできない。
この研究は、日本人・フランス人・英国人を比較したものだが、この宗教的ビリーフについて比較文化を行う第一の理由は、宗教的ビリーフは弁証法的である可能性が高く、かつ東洋人は西洋人と比較して弁証法的思考を行いやすいということがこれまでの研究から主張されているからである。つまり、「お守りは迷信である」という陳述と「お守りを紛失すると不安だ」という陳述の両方に賛成すれば、その人は弁証法的だということになるが、東洋人が弁証法的だとすれば、日本人においてこの傾向が強くなると予測されるわけである。実験結果は、まさしくこの通りだった。日本人は、フランス人や英国人と比較して、弁証法的に宗教的ビリーフを迷信だと判断すると同時に、宗教的ビリーフにともなう情動的反応が生起していたのである。
東洋人の弁証法について、さまざまな説明があるが、哲学的あるいは宗教的伝統の影響を受けているという指摘がある。たとえば、道教の陰陽思想では、陰と陽が表裏一体的に結びついているし、仏教では、それ自体が弁証法的である「空」という概念が、とくにナガルジュナの中論ではキーになっている。私も、仏教に詳しくなくても、「全ては存在する」という命題と「何も存在しない」という命題を弁証法的に受け入れているような気がする。