スティーヴン・ピンカーの『暴力の人類史』は、ここ10年で私が最も影響を受けた著作の1つだが、そのピンカーが書いたということで読んでみたのが『21世紀の啓蒙』である。21世紀は、戦争や飢餓、貧困、疫病 (COVID-19が猛威を振るっているとはいえ、過去のペストなどと比較すれば物の数ではない) をかなり克服できただけではなく、科学が発展し、健康になり、また人権意識も高まった時代である。ピンカーは、この啓蒙を推し進めたいと本書を執筆したようだ。ただ、よく読んでみると、ピンカーの考え方に対して、いわゆる「進歩的知識人」による批判が多く、彼らに対する怒りが本書の最も大きな執筆動機のようにも感じた。
拙著『生きにくさはどこからくるのか』で私も述べたが、「昔は良かった」と思い違いをしている人は多い。しかし、IT技術の発展とそれに伴うさまざまな科学的発展を実感している身として、なぜこの科学の成果を享受しないのかは不思議である。個人的体験だが、私は医学の発展によって3回命を助けられている。1回目は出産時なのだが、おそらく病院で生まれていなければ死産だっただろう。自宅出産が当たり前だったその15年前に生まれていれば今の私はない。2回目は小学生の時の結核である。それが30年前だったとすれば命は危なかっただろう。3回目は2001年の悪性リンパ腫で、その時点で過去10年の間に化学療法による生存率が著しく高まったといわれていた。この背景にあるのは、抗がん剤(私が受けたのは、CHOPというプログラムだった)の進歩だけではない。抗がん剤投与による骨髄抑制で白血球が減少するのだが、これを注射一本で回復させることができるようになったことも大きかった。次の抗がん剤投与のために白血球の回復を待つ必要がなくなり、患者にはちょっと辛いのだが、投与の間隔を短くして集中的に腫瘍を攻撃することが可能になったわけである。これらの進歩には、いずれもIT技術が大きく寄与している。
ガンをはじめとする病気の克服や長命、さまざまな娯楽に科学技術は多大な貢献をしているはずなのだが、「進歩的知識人」といわれている人たちには科学批判がしばしばある。ピンカーは、彼らの科学批判を分析しているが、概して彼らに共通するのは、現代がいかに劣化しているかを強調し、それがこの現代の科学あるいは文明にあるとする姿勢である。進歩的知識人は売れる本を書きたがるが、確かに、「人類はいかにして民主主義を作り上げてきたか」のようなタイトルよりも、「現代の民主主義の危機」のほうがはるかに売れる。また彼らは、その名に相違して「進歩嫌い」が多いのだが、それを遡ると、ロマン主義運動にたどり着く。
元来ロマン主義は、文語としての古典ラテン語で書かれた文学に対して、口語であるロマンス語で書かれた文学作品を評価しようというもので、生な口語としての感情表出の記述に重点を置いた。その結果、ロマン主義は産業革命への反動として、産業革命や科学の進歩を支えた理性偏重、合理主義などに対し、感受性や主観に重きをおいた一連の運動となっていった。ロマン主義的科学批判は、経済や発展が行き詰ったと感じられるときにちょくちょく蘇るが、モダニズム批判としてのポストモダニズムにもその影響が大きく現れている。科学の限界や問題を指摘するだけなら貴重な批判なのだろうが、現実の政策として研究費の減額に影響力を及ぼすようになると困ったものである。