前回の記事で日本の戦争責任謝罪について書いたので、もう少しこの問題を掘り下げてみたい。実は、10年以上も前の英国在住中にロンドンの帝国戦争博物館(IWM)を訪れたのだが、そこで強く印象に残ったことがある。それは、ナチスのホロコーストについてのもので、アウシュビッツでの記録ともに展示されていた、ガス室などでホロコーストに加担した人々についての記述である。残虐性が浮き彫りにされていたというよりは、彼らが、いかに「普通の人」だったかということが強調されていたのだ。つまり、ドイツ人が悪いとか、ナチスの協力者が非人間的であるとか、そういうことではなく、ホロコーストが文化普遍的な人類の悪行として描かれていたのである。
そのときに感じたことは、ソウルの西大門刑務所歴史館との違いである。ここでは、日本あるいは日本軍が韓国の人々にいかに残虐な行為を行ったかということが、これでもかこれでもかと展示されている。個人的に、韓国ではまだまだ日本の残虐行為を普遍的な人類の罪と捉えるのは難しいのかと悲しかったが、ジャレド・ダイアモンドの『危機と人類』のドイツの反省・謝罪を読んでみて、ドイツおよび周辺国が、ナチスの協力者の罪を人類普遍的なものと理解するために、双方とも並々ならぬ努力があったということが理解できた。
ユダヤ人がナチスあるいはその加担者の残虐な行いを人類普遍の罪として理解しようとした代表的な例は、両親がユダヤ人であるスタンレー・ミルグラムによる服従実験である。1963年に発表されたこの実験では、参加者は「教師」として、課題を間違えた「生徒」に電気ショックという罰を与え、間違えるたびに電圧を上げていくように、権威をもって命じられる。この「生徒」は実はサクラで、実際には電流は流れていないが、参加者が機械を操作すると見事な演技で苦悶を表現したようである。その結果、普通の人間のはずの「教師」になった参加者が、命じられるままに電圧を上げていったのである。この実験は、現在では倫理的な問題から追試することができないが、「普通の人間が権威によって残虐になってしまう」ということを示したものとして貴重であろう。
この実験が計画された直前に行われたのがアドルフ・アイヒマン裁判である。エルサレムで行われたこの裁判を、ドイツで生まれ育ち、ニューヨーク大学で教鞭をとるユダヤ人哲学者のハンナ・アーレントがニューヨーカー誌の特派員として傍聴し、同誌に連載記事を書いた。これは、バルバラ・スコヴァ主演で「ハンナ・アーレント」というタイトルで映画化されている。この映画によれば、彼女は、アイヒマンが大量殺人を指揮したとは思えぬほど凡庸な人物であることを知った。アイヒマンは、役人として自らの役職を忠実に果たしていたに過ぎなかったのである。そして、アイヒマンを裁く刑法的な根拠は存在しないこと等を主張した彼女の記事がニューヨーカーの連載記事として掲載されると、これらの記事は「ナチスを擁護するものだ」としてユダヤ人社会の感情的な反発を招き、彼女は大学から辞職勧告まで受けるに至った。しかし、「アイヒマンは、ただ命令に従っただけだと弁明した。彼は、考えることをせず、ただ忠実に命令を実行した。そこには動機も善悪もない。思考をやめたとき、人間はいとも簡単に残虐な行為を行う」という彼女のメッセージは、徐々に支持を得るに至る。
被害者側が、加害を「人類普遍の罪」として受け入れるためには、さまざまな困難を乗り越える必要がある。日韓あるいは日中の場合は、イデオロギーの対立という途方もない問題に取り組まなければならないが、前回の記事で書いたように、日本の歴史教育の反省や博物館等における加害の展示は、その第一歩になるのではないかと思う。