2019年4月6日土曜日

ブルネイの新刑法―これは批判されるべき


 石油資源が豊富で一人当たりGDPがアジア有数のブルネイにおいて、不倫や同性間の性交渉に対しては石打ちによる死刑、レイプや強盗、預言者ムハンマドへの侮辱にも死刑という、シャリアに基づく新刑法が施行されたようだ。とくに、石打ち刑は、下半身を地面に埋め、死刑囚が死ぬまで周囲の民衆が石を投げつけるという、とてつもなく残虐なものである。さすがにフランスをはじめとする国々から批判の声が起こり始めている。

 従来、イスラム教のこのような刑罰について、眉をひそめることはあっても、欧米をはじめとする国々から大きく批判されることはなかった。それには二つの理由があり、第一は文化相対主義である。文化相対主義は、それぞれの文化に固有の価値があってそれにのっとった文化習慣が形成されており、どの文化が優れているのかという基準は存在しないとみなしている。この考え方は、西洋文化あるいは西洋人が優れているとする西洋至上主義に異議を唱えるとものとしてリベラルと考えられている。したがって、イスラム教徒の文化習慣を批判すると、リベラルとは真逆のレイシストと見なされる危惧があるわけである。第二は、欧米の知識人に共有される罪悪感である。欧州列強による植民地化、アメリカやオーストラリアにおける先住民への暗黒の歴史、アメリカにおける黒人奴隷など、反省すべき材料は多い。この道徳的罪悪感から、イスラム教徒などに対する批判がなされにくいのである。これは日本にも同じことがいえ、とくにブルネイは第二次世界大戦において占拠しているので、批判しにくいだろう。

 しかし、このブルネイのシャリアに基づく新刑法は、やはり批判されるべきだ。宗教には排他的な側面があり、たとえばキリスト教も異端拷問や魔女狩りなど、暗黒の歴史をもっている。しかし、キリスト教側は、18世紀ころから、魔女狩りを終焉させ、異教徒への弾圧を減少させ、罪人あるいは被疑者に対する厳罰のを減させ、またそれに伴う拷問も用いられないようになってきた。この背景には、小説の普及や啓蒙主義・人道主義の普及があると推定されるが、これらはヨーロッパ人の自助努力によるものである。

 このようなことがなぜブルネイで生じていないのだろうか。豊かになると民主的かつ人道的になるというのは、普遍的な傾向だと思われるが、この法則がブルネイではなぜ成り立っていないのだろうか。私は、ブルネイは行ったことがなく、人々の暮らしを肌で感ずることがないので、理由はわからない。しかし、石打ちなどの残虐な刑罰に対して、人々が嫌悪を感ずるような文化は育たなかったのだろうか。豊かになって西洋的な価値観も流入していれば育ってくるとは思うのだが、ひょっとしたらその変化が急速すぎて、変化に対する危機感から反作用的にシャリアを守っていこうという潮流が生まれたのかもしれない。しかし、日本も、第二次世界大戦での迷惑は別のこととして、ブルネイの人々のためにも国際的な批判の輪に加わるべきだろう。

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