私は、人間の精神が、直観的な判断をもたらす進化的に古いシステムと、熟慮的な判断を可能にする進化的に新しいシステムから構成されているとする二重過程理論の視点で研究を続けている。二種類のシステムを想定したうえでの問題の一つに、新しいシステムが古いシステムを制御できるのかどうかというものがある。この理論を信奉する研究者たちの当初の想定はかなり楽観的で、進化的に新しいシステムが、古いシステムからの出力を柔軟に修正していくと考えられていた。
しかし、古いシステムは強い情動と直結しており、このような情動的出力は修正しにくいという指摘も数多くなされている。よく取り上げられる例だが、口の中の唾液は平気で飲み込むことができるのだが、コップに溜めた自分の唾液を飲むにはずいぶんと抵抗がある。頭では (進化的に新しいシステムからは)、口の中の唾液もコップの中の唾液も同じ自分の唾液であると判断できるが、やはりコップの中の唾液を飲むにはずいぶんと抵抗がある。進化的に古いシステムが、それを不潔と判断して大きな嫌悪感をもたらせるからである。言い換えれば、新しいシステムは、古いシステムからの嫌悪というこの出力を制御することができないわけである。
この知見と照らすと、少々抵抗を感ずるのが、人間あるいは動物の像の口から水が出てくる泉水である。今はさすがに飲むことはできるが、自分が小さい頃は、ちょっと気持ちが悪いなと思っていた。それでは、以下はどうだろうか。飲んだり食べたりは可能だろうか。
(1) ブリュッセルにある小便小僧のペニスから出てくる水。
(2) 排尿のポーズの実物そっくりの男性裸像があり、ペニスの先から出てくるビール(そういえば、私の大学の同級生に、紙コップでビールを飲むときは、必ず「検尿は美味いな」と言いながら飲む奴がいた)。
(3) 排泄のポーズの実物そっくりの男性裸像があり、その肛門から噴き出てくるカレー。
(4) 嘔吐のポーズの実物そっくりの男性像があり、その口から出てくるお粥。
(5) (3)に、排泄のときと酷似した音がついている。
(6) (4)に、嘔吐のときと酷似した音がついている。
自分で書いていて気分が悪くなってきたが、(1)~(4)ならなんとか我慢して食べたり飲んだりすることができるかもしれない。しかし、空腹に耐えきれないときは、(5)や(6)でも食べるかもしれない。