静岡県の川勝平太知事が辞任する。当初は学者出身の知事として、また私も氏の『文明の海洋史観』は良い著作と思っていたので期待していた。とくに『文明の海洋史観』は、梅棹忠夫の『文明の生態史観』をはるかに超えた著作として評価していた。『文明の海洋史観』は、ユーラシア大陸の東西の両端でなぜ比較的文明が栄えたのかを説明する『文明の生態史観』を補完するものという見方もあるが、ユーラシアの南の海上での交易によって一体何が取引されるのかという視点を重視しており、文明の不均衡の説明としては、梅棹の生態史観とはかなり異なったものと私は考えていた。梅棹ファンには申し訳ないが、『生態史観』は、中央アジアの暴力から遠いところが栄えたという極めて粗雑なアイデアが元になっているが、『海洋史観』では、どのようなものが生産され、それがどのように取引されることによって文明の発展があったのかが言及されている。
私が気になったとすれば、梅棹氏と川勝氏の対談である。なんと梅棹氏が『生態史観』では引用文献が極めて少ないこと、つまりそれによって自分のオリジナリティが高いということを自慢しているのに対し、川勝氏が追従するような発言をしていたのだ。(「だから先生の説は粗雑なんですよ」と突っ込んでもらいたかったが、まあ、それは無理として、せめてやんわりと否定して欲しかった。)
この川勝氏が静岡県知事になって以来、最も大きく報道されていたのは、リニア新幹線の南アルプストンネルについてである。大井川の水源と環境破壊ということで、強固に反対していたのは周知の通りだ。私は、環境保護と開発についてどの辺りに線引きがあるべきかについては、何が正しいのかは自信がない。しかし、開発の利益と環境の損壊を両天秤にかければ、どうみても川勝氏側の反対は合理性に欠けるという印象が強い。
しかし、辞任の決定打になったのは、今年度の静岡県新人職員への訓示の中の、「毎日野菜を売ったり、牛の世話をする仕事とは違い皆さんは知性が高い」という文言である。この一言で、川勝氏の職業差別意識が丸出しになったのだ。こういう姿勢は政治家として問題があるのは当然として、自称リベラルの川勝氏としては、自身のリベラルアイデンティティとは程遠い部分をさらけ出すことになったことに耐えられなかったのだろう。
中流階級が崩壊すると国がリベラルではなくなると言われているように、概して、リベラルを支えるのは中流階級である。理由はさまざまに考えられるが、多くの国において人権などを真剣に議論できるのは高等教育
(大学教育) で、そうすると当然のようにそのような教育を受けた人たちがリベラルになり、中流階級に多いということになる。しかし、大学教育は同時に選民意識を植え付けることになる。そうすると、無知蒙昧の貧しい可哀そうな人々に人権をめぐむという発想が、心の奥底に巣食ってしまい、何かの拍子にそれがさっと顕在化してしまうのだ。これは、大学で教育を受けて社会のリーダー的な地位にある人には多かれ少なかれあるのではと思う。残念ながら私も例外ではない。しかし、リベラルアイデンティティが強くなると、自分がそのような差別意識を持っていることさえ気がつかなくなってしまう。
中流階級階級からこぼれ落ちた人たちは、社会がリベラルになるとその恩恵に与れるはずである (富の再分配は、リベラル側の主張である)。 しかし、彼らは、中流階級の人たちが心の奥底にもつそのような選民意識 (あるいは差別感情と言ってもよいかもしれない) に敏感である。2016年のアメリカ大統領選挙で、ヒラリー・クリントンがドナルド・トランプに敗れたのも、これが大きな要因と推定されている。中流からはみ出た人たちは、ヒラリー・クリントンのような東部のエリートがいくら口では富の再配分を叫んでいても、背後に「お恵み」の発想が見えて嫌いなのである。
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