「知能低下」というと、現代文明に批判的な左派系の評論家のお得意分野である。つまり、資本主義による物質文明には限界があると同時に、便利な道具などによって人々の知能は低下し、物質的豊かさは人間のモラルを荒廃させるという論法である。物質文明が発展する以前の狩猟採集民たちの世界は平和で道徳的だったという、現代では否定されている「高貴な野蛮人」説が姿形を変えて何度も蘇るかのようである。
しかし、これらの主張は、現代に近づくにつれて犯罪や暴力・差別などが大きく減少している事実や、過去50年ほどの間の知能テストの素得点の上昇というフリン効果によって否定されている。にもかかわらず、相変わらずの主張本が出版されたのかなと思ったら、このエドワード・ダットンたちによる『知能低下の人類史』は、科学的証拠に基づく学術書で、かなり恐ろしいことが科学的に根拠のある推定として述べられている。それは、自然選択による遺伝的知能の低下である。
知能は、ある程度遺伝的な制約を受けるので、知能が高い人が生存においても生殖においても有利な環境が持続すれば、人類の知能は上昇する。実際、狩猟採集社会でもそういう傾向はあり、農業革命以来、知能が高い人は裕福になりやすく、子孫も多く残すことができるようになり、人類の知能は上昇したようだ。しかし、そのピークは産業革命までであり、それ以降、2つの理由で知能は低下したという。1つは、福祉的な思想・政策によって、従来なら子どもを持てなかった人々が子孫を残すようになったこと、もう1つは、ここ50年ほどの傾向だが、知能が高いと思われる高度な教育を受けた人々のほうが子孫を残していないという事実である。この後者の傾向は、高度な教育を受けて専門職に従事している女性において特に強い。
彼らの主張には、フリン効果を検証したジェームズ・フリンもかなり同意しているようだ。というのは、知能にも遺伝子の制約を受ける成分と受けにくい成分があることが言われているが、フリン効果は教育の影響に敏感で遺伝子の影響を受けにくい成分(科学的思考など)で起きているのであり、遺伝子と直結している単純反応時間等は低下しているからである。また、アンチフリン効果として、フィンランドなどの北欧先進国では、ここ20年ほどの間に、わずかではあるが知能検査得点の平均的低下が見られているようで、その理由が、専門性が高い職業に従事している女性が子どもを産まないためであると推定されている。。
科学的な事実ならそれを受け入れるしかないが、このような事実が、優生学的思想をもつ福祉的な政策に反対する人に燃料を与えるのではないかと心配になる。現代の少子化問題を鑑みると容易に解決はできるとは思わないが、向かうとすれば、高度専門職に就いた女性がもっと子育てをしやすい環境をつくるという方向であろう。また、確かに、遺伝的影響を受けやすい成分については知能の低下が見られるのではないかとは思うが、これは単純反応時間のように、練習で改善できないどちらかといえばシンプルな知能的側面である。現代社会に必要なのは、遺伝子の影響を受けにくい科学的思考などであり、これは高等教育をより充実させることによって向上していくのではないかと、私は個人的に考えている。