2022年11月22日火曜日

医療におけるスティグマの患者心理について―富山県中新川郡医師会学術講演

  1117日に、富山県中新川郡の医師会主催の講演を遠隔で行った。きっかけは、本医師会会長の寺畑医師からの依頼で、糖尿病患者のスティグマについて心理学の知見が欲しいということだった。私自身は糖尿病患者のスティグマについては直接扱っていないので、期待に沿えるのかどうか不安だったが、熟慮と直感を想定する二重過程理論の枠組みにあてはまると確信したので、お引き受けした。

 スティグマとは、刻印、汚名という意味で、差別や偏見に対応している。医療においては、糖尿病や精神疾患の患者などが、個人の持つ特徴に対して、周囲から否定的な意味づけをされ、不当な扱いことをうけるという問題が注目されているようだ。とくに、糖尿病患者において、医師からは自己管理ができない人間という偏見を受け、患者自身も自分はそういう人間なんだと自暴自棄的に生活習慣を改めないという問題が起きているようだ。

 私は、講演においてスティグマを偏見と差別の延長として、二重過程理論のアプローチで論じた。つまり、偏見や差別は、その多くが直感的システムの所産なので、熟慮的システムが直感的システムをどのように制御できるかという枠組みで捉えることができる。直感的システムによる、ちょっとした勘違いなどは熟慮的システムで修正が可能である。しかし、直感的システムの出力は強い感情を伴いやすく、修正されずに熟慮システムの出力と共存状態になることも多い。たとえば、熟慮システムはお守りが迷信であると判断できるが、それを踏みつけるような行為を直感的システムは許さない。恐怖を伴うタブーだからである。それと同じように、差別・偏見には、嫌悪などの感情が伴われるので、修正は難しい。

 それでも、歴史的には、差別・偏見は確実に小さくなっている。とくに、第二次世界大戦後の人権意識の高揚は世界的にみられ、日本においても性差別やLGBTへの偏見はまだまだ残っているとはいえ、ずいぶんと小さくなった。この変化に気がつかない高齢者が、「昭和のオヤジ」と揶揄される事例がこの減少を物語っている。

 この変化は、熟慮的システムの性能が良くなった (たとえば、ここ50年の知能の上昇を示すフリン効果など) ことに加えて、良き物語の普及が大きいと思われる。良き物語は、人々に被差別者への共感を呼び起こして、人々に大きな感情を引き起こす。人種差別のストップについては、ストウ夫人の「アンクルトムの小屋」が非常に大きな影響力をもった。共感は、人々に行動を引き起こさせる力をもつ。したがって、現在行われている、熟慮的システムへの介入である糖尿病患者へのアドボカシー活動に加えて、良き物語を見つけていくことが重要というのが私の提案である。うつ病については、細川貂々の「ツレがうつになりまして」があるが、このような物語が普及されていくのが望ましい。

 しかし、物語の理解には熟慮的システムが重要だとしても、共感を生み出すシステムは直感的である限り、直感的システムの非柔軟性を引き継ぐことになる。したがって、共感対象に思い入れが過ぎると、モンスターペイシェントを生み出すなどのバランスを欠いたものになりやすい。何よりも、物語を利用して人々の行動変容を引き起こすことは、マインドコントロールであるという自覚が必要だろう。オウム真理教やナチスも、「理想」への物語で人々を扇動した。物語は、諸刃の剣なのである。

2022年11月1日火曜日

公明新聞書評―『人はどこまで合理的か』

  1031日付の公明新聞の「読書」欄に、スティーヴン・ピンカーの『人はどこまで合理的か』の書評を執筆した。こちらで掲載の許可もいただいたので、下記に全文を公開したい。

 スティーヴン・ピンカーの著作は、『言語を生み出す本能』などの認知心理学的・進化心理学的視点からの言語獲得についてのものから始まったが、その後は『暴力の人類史』や『21世紀の啓蒙』など、人類史的視野に立脚するものが目立っていた。そのような経緯を経て、再度人間の認識に焦点を移して書かれたのが『人はどこまで合理的か』である。本書の内容は、前半は思考心理学の教科書のようで、ピンカーの著作にしては地味な印象かもしれない。しかし、社会との関連の合理性についての最新の知見が数多く加えられていて、合理性が人間の頭の中の活動だけで語られていた一昔前の出版物と比較すると隔世の感がある。

 現在の認知心理学における人間の合理性についての議論では、高容量の新皮質に支えられた内省的システムと進化的に古いとされる直感的システムが想定される。この枠組みで、①内省的システムは直感的システムの非合理性をどの程度制御できるのか、②直感的システムといえども進化的には合理的なのではないか、③論理学などの規範システムは合理的といえるのか、などのリサーチクエスチョンが投げかけられる。ただし、ピンカーをはじめとする進化心理学者は、内省的システムと直感的システムの区別をあまり好まないので、本書では、①の視点ではあまり論じられてはいない。その代わり、②について、さまざまな認知バイアスが進化的にはある程度は合理的であることを指摘し、また従来、合理性基準の枠外であった感情や宗教などの合理性を進化的合理性の視点から十二分に論じている。③について、たとえば「共有地の悲劇」などの、社会とのかかわりの中から目指すべき合理性の規範が模索されている。

 合理性研究における近年の研究材料に、陰謀論や動機づけられた推論、マイサイドバイアスなどがある。これまでは内省的システムはバイアスの制御に使用されているといわれていたが、自分の欲求や選好のために使用されるということが近年指摘されている。たとえば、内省的システムを使う人ほど二酸化炭素が地球温暖化の原因であると推論するが、トランプ支持者は内省的システムをその否定のために使用することが示されていて、動機づけられた推論の代表とされる。これらを、本書では推論能力が議論に勝つために進化した結果の産物とし、関連する「わら人形論法」や「ホワットアバウト論法」、「連座の誤謬」等も紹介している。「連座の誤謬」の代表例は、「○○はナチスが行ったことだから (ナチスと連座しているから)」と主張して○○を非難するものである。オリンピックの聖火を「ナチスが始めた」として非難する論法があったことを思い起こさせる。

 そしてピンカーは、合理性等を支配階級の特権を正当化する社会的構築物として正当に評価しないポストモダニスト等への批判として、合理性は、人類の物質的進歩や道徳的進歩に貢献するとして本書を締めくくっている。

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