私が著者の1人に名を連ねた、”Situational factors shape moral judgements in the trolley dilemma in Eastern, Southern and Western countries in a culturally diverse sample.“が、Nature Human Behabiourに掲載された。これは、トロッコ問題として知られるモラルジレンマについて、45カ国からデータを収集したもので、Bence Bagoを筆頭としてやたら共著者が多い論文である。日本からは、九州大学の山田祐樹先生も加わっており、共同で実験材料の日本語版を作成している。この翻訳にはバックトランスレーションが大変で、当時4年生のT君とHさんにはたいへんお世話になった。
トロッコ問題は、暴走するトロッコの行く手に5名の作業員がいるが、あなたは分岐器を作動させて、トロッコの進路を変えることができ、変更先なら犠牲になる作業員は1名であるという状況設定で、分岐器で進路を変更させるかどうかという問題である。多くの人は、変更に賛同する。なぜならば、死者は5名よりも1名のほうが望ましいからである。ところが、今度は分岐器ではなく、歩道橋の上から、大きなリュックを背負った大男を突き落としてトロッコを止める(あるいは減速させる)ことによって、作業員5名を助けるべきかどうかと問うと、とたんに突き落とすべきではないという回答が増える。どちらも1名の死者で5名が助かるという結果なのだが、分岐器による変更に比べて、「突き落とす」という行為に直感的に抵抗を感ずるのである。犠牲者は5名よりは1名のほうが良いとする判断は、功利主義に基づくものである。しかし、歩道橋の場合は、「1名であっても人を殺すのは良くない」という義務論主義に判断がスイッチする。このスイッチの要因として、1名の被害者への殺害の意図性と作用の直接性が挙げられている。つまり、歩道橋の場合のように、被害者への意図性や直接の作用があると、たとえ5名助けるためであっても、それは容認できなというわけだ。
しかし、有名になったこのような研究の比較文化研究はほとんどない。それでこの45カ国のデータ収集が始まったわけである。当初の予想は、集団主義の文化圏では、意図性や作用の直接性の効果は小さくなるというものだった。なぜならば、集団主義文化では意図を読むことなどが奨励されていて、トロッコの分岐器のように、犠牲者を殺害しようという意図性が明示されていなくても、そこに殺害意図を感ずる可能性があるからである。実際、西洋や南(欧・亜・米)と比較して、東洋人にはその傾向が見られないわけではない。しかし、概して推測統計的にいえたことは、これらの効果は、集団主義文化/個人主義文化という文化次元とあまり関係はないということだった。つまり、ほぼ文化普遍的であるということが示されたわけである。一般に、比較文化研究では、文化間に差がないという結果から、文化普遍性を主張するのは難しい。しかし、45カ国からの収集なら、自信をもって主張することができる。