珍しく、拙著『「生きにくさ」はどこからくるのか』があるブログで紹介された。DavitRiceという方の、道徳的動物日記においてで、比較的高く評価していただいて感謝している。この本は、直感的システムと熟慮的システムを想定する二重過程理論の枠組みにおいて、熟慮的システムが歴史的にどのように直感的システムの非規範的あるいは非合理的な出力を制御してきたのかという視点で現代を捉えているが、その点を十二分に理解していただいている。
にもかかわらず、DavitRice氏は、ツイッター等で、なぜほとんど話題になっていないのかを不思議がられているようである。私自身も、力作と思っているのでこれは残念なのだが、さらに売れ行きもあまり芳しくない。自分自身でもこの理由を考えてみた。
第1の理由は、私自身のネームバリューのなさだろう。これは仕方がないことだが、心理学の領域では少しは知られているかもしれないが、それ以外ではほとんど知られていない。残念ながら多くの心理学の研究者からは、私が何かわけのわからないものを書いていると思われているかもしれない。
第2の理由は、タイトルのつけ間違いだろう。実は、本書はタイトルが最後まで決まらなかった。ビッグ・ヒストリーを入れるのはおこがましいし、現代の繁栄をとりたてて強調しているわけでもない。そこで、現代の繁栄の影の部分として、分業化と多文化共生によって、阿吽のコミュニケーションができなくなっていることに「生きにくさ」があるとして、このようなタイトルになった。しかし、「生きにくさ」を感じている人々が本書に解決を求めても、おそらくほとんど役には立たない。拙著への失望だけが残ってしまう。
第3の理由は中身の薄さである。DavitRice氏は、ピンカーの『暴力の人類史』などと比べてもずっと簡単に読めるので、このタイプの主張に興味がありつつもどの本も分量がすごくて手を出せなかったという人にはおすすめといってくださってはいる。しかし、同時に、薄いぶん味気なかったり議論が浅いかったりするところがあるとも述べていて、実は、私もここが致命傷かなとも考えている。というのは、拙著は、『暴力の人類史』やリドレーの『繁栄―明日を切り拓くための人類10万年史』などが好きな人が読者としてターゲットになっているが、彼らはさまざまな科学的根拠に照らしてビッグ・ヒストリーを物語として描写したものではないと満足できないはずである。そうすると、この薄さにはどうしても不満が残るのではないだろうか。私も、ピンカーやリドレーのような著作を書いてみたいとは思う。しかし残念ながら、あのレベルまで大量の文献やデータを紹介しながら論を展開する能力は私にはない。
そして第4は、おそらくこれが最も大きな理由だが、「現代は良くなっている」と論述するよりも、「現代の民主主義の危機」とか「現代人の精神の貧困化」、「現代人のモラルの低下」を訴えるほうが人々の耳目を集めやすいということだ。この点は、ピンカーも『暴力の人類史』の前書きで述べている。人々はおそらく進歩よりも、悪化・劣化に敏感で、悪化・劣化を指摘する人間を賢人とみなす傾向があり、そのような出版物を好むのだろう。
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