2024年1月21日日曜日

ポピュリズムについて (2)ー左派ポピュリストの典型例とその危険性

  前回の記事では、今どき珍しい右派ポピュリストを例示してみた。右派ポピュリストは、米国ではトランプの例もあるが、第二次世界大戦後の「人権高揚の時代」の中では基本的には絶滅危惧種なのではないかと思う。日本で力をもつとすれば、今後、海外からの移民をより多く引き受けることによって、自分たちの職がなくなると危機感をもった非熟労働者の支持を得たときだろう。

 ポピュリストを支持するのは、文化普遍的に、中流階級から脱落しつつあったり、あるいはその危機感を感じていたりする人たちである。日本の場合、この不満が政権に向けばポピュリストが勢いを増すが、それは多くの場合は左派的ポピュリストになるのではないかと思う (この右派・左派という区別は、元来が経済政策的なもので、利益を完全に平等に配分するという極と利益はすべて稼いだ個人に与えられるという極のどちらに近いかで右派・左派に分類されるはずなのだが、フクヤマによれば、この区別は一種のアイデンティティになってしまっている。ちょうど、トランプ右派が地球温暖化を信じなかったり、日本の左派が反原発運動と直結していたりするようなものである。ここでは、このアイデンティティとしての右派・左派の意味で使用したい)

 日本における危惧すべき左派ポピュリストは、山本太郎氏が率いるれいわ新選組だろう。これは日本だけではなくいわゆる民主国家に共通する現象だが、左派は、概してリベラルとされて、非中流化による政権不満層だけではなく、中産階級のインテリ層にも人気が高いので、左派ポピュリストはこの勢いで一気に政権を奪うことが可能である。れいわ新選組は、現時点では少数派だが、SNSを駆使し、能登の震災にいち早く現地入りしたり、福島原発について「ベクレている」という扇情的な表現を用いたり、パフォーマンスがやたら目立つ危険な兆候を見せている。

 また、選挙不正等の陰謀論をほのめかしているのも看過できない。陰謀論は近年の民主主義の敵とみなされていて、ドナルド・トランプが有名だが、この党による「監視の目を増やさなければ選挙不正」というほのめかしは、民主的制度に対する挑発だろう。陰謀論と並んでフェイクニュースもポピュリストの常套的な戦法である。ラサール石井氏が能登半島地震についての、二次避難について有償という問題含みのツイートを行ったのは記憶に新しい。本人にはフェイクニュースという意図はなかったかもしれないが、結果的に社会的に有害なフェイクとされた。ところがこれに対して、れいわ新選組のやはた愛氏は、無償であることを伝えてなかった政府が悪いと、逆に政府批判を展開したのである。党員に、全くのデマ・フェイクを拡散した人物を擁護したり、論点をすり替えて政府や首相を非難したりする人物が存在することは、ポピュリスト党としての体質を示している。誤解を助長する発信しておきながら「誤解させた政府が悪い」と開き直るのは異常である。

 前回の記事でも示したが、左派ポピュリストには経済的ポピュリズム的で、実現あるいは持続不可能な経済政策を掲げているものが多い。れいわ新選組も、消費税をゼロにするという公約を掲げているが、私の情報収集不足もあるとは思うが、その不足財源についての明確な声は聞こえてこない。これまでの左派系の主張に習えば、「行政の無駄をなくす」とか「大企業に増税」、「防衛費を削減」等があると思う。それで消費税分の減収をまかなえるだろうか。また、大企業への増税は、大企業の海外資本との競争力を低下させるというリスクがあるが、どの程度低下させるのかというシミュレーションを行っているのだろうか。このような点を考えれば、もし万が一政権与党となったときに、日本に経済的破綻が訪れるの確率は極めて高くなる。さらに想像力を逞しくすれば、その後は、中国による経済的植民地化や右派によるクーデターなどの悪夢のようなシナリオとして思い浮かぶ。

 

関連記事

ポピュリズムについて (1)ーフクヤマによる分類と典型的右派ポピュリスト

2024年1月12日金曜日

ポピュリズムについて (1)ーフクヤマによる分類と典型的右派ポピュリスト

  すでに言い古された感があるポピュリズム・ポピュリストという用語だが、おそらく多くの日本人が思い浮かべるポピュリストには、橋下徹やドナルド・トランプがいるのではないだろうか。しかし、これまで多くの政治学者たちが議論しているにもかかわらず、定義は必ずしも明確ではないようだ。国民の熱狂的な支持を受けた怪しげな政治家が新たに登場したりすると、再定義が必要になってくるからである。私が好んでいる二重過程理論を適用すれば、ポピュリストは熟慮的システムよりも直感的システムに訴えることが巧みである。直感的システムは、行動を喚起する大きなエネルギーを伴うので、何かを変革する必要があるときには重宝されるが、残念ながら熟慮的システムがもつ合理性が欠けている。その意味で、ポピュリストは「怖い」のである。

 かつては、ポピュリズムは右派の専売特許で、ナショナリズムと結びつきやすかった。ヒトラーやムッソリーニが国の方向を誤らせたのは何度も語られた例だろう。しかし、第二次世界大戦以降は、左派のポピュリストも数多く現れている。このような状況を鑑みれば、フランシス・フクヤマの形態分類は役に立つ。この分類によれば、第1は、カリスマ的リーダーシップで、「わたしはみなさんの代表である」というアピールである。本当に代表しているのかどうかよりも、そう思わせるのが巧みなわけだ。第2は、国民を特定の形質でのみ勝手に定義し、それから外れた人たちを排除するゆがんだナショナリズムを標榜するものである。ゲルマンの純潔を訴えたヒトラーやドナルド・トランプなど、右派系のポピュリストが採用しがちな戦略である。第3は、経済的ポピュリズムで、実現あるいは持続不可能な経済政策を掲げるものである。これは、左派系ポピュリストが多く、ベネズエラのチャベスが代表例である。チャベスの政策の結果、あれだけ石油資源が豊富であるにもかかわらず国民は貧しくなり、チャベス自身も権力を維持するために強権的な独裁を選択している。バラマキ政治もこの一種だと思うが、これについては右派も左派も関係ない。

 民主的国家においては、第二次世界大戦以降、とくに人権意識高揚の過去50年の間に、第2のタイプが現れる可能性は少なくなっているのではないかと思ったが、偏狭なナショナリズムやステレオタイプや差別はやはり人間の心に普遍的に巣食っているのか、日本にもとんでもない国会議員が現れた。杉田水脈氏である。LGBTに対する差別的発言 (本人は「区別」と言っているようだが)、女性差別は存在しないとする見解、アイヌ民族に対する差別的発言など、私などは、戦前の亡霊を見ているように感ずることがある。賛同する人は少ないという点でポピュリストとは呼べないのかもしれないが、決して失脚するわけではなく、何やら自由民主党の重鎮、あるいはネトウヨと呼ばれる人たちからは支援を受けているようなので、上記の第2のタイプのポピュリストなのかなと思う。杉田氏の支持者が今後増えるとは思えないが、民主主義が壊される火種の1つではあろう。