2022年7月14日木曜日

『ルーズな文化とタイトな文化』を読む(1)―概観

  これまでの比較文化研究において、最も多く出版されているのは西洋の個人主義文化と東洋の集団主義文化という対比によるものである。それに対して、ルーズな文化・タイトな文化という区分はあまり注目されず、どちらかといえば個人主義が比較的ルーズで集団主義がタイトという程度の扱いだった。タイトな文化では、規則が厳格で、さらにそれを破ったときの制裁や非難は大きく、ルーズな文化ではその逆である。しかし、ミシェル・ゲルファンドによる2019年の原著(Rule makers, rule breakers)が『ルーズな文化とタイトな文化』として日本語訳が出版されたが、これによれば、このルーズ・タイトという次元での文化の新しい分析がいかに有益であるかが実感される。

 ルーズ・タイトは、1995年までの個人主義・集団主義についての研究を網羅したハリー・トリアンディスの書籍の中でも言及されている。しかしこの時点では、いくつかの国が例示されているだけで、あまり大きな議論はない。せいぜい、個人主義・集団主義が東西の軸ならば、北のタイトな文化・南のルーズな文化という南北の軸の提唱程度だった。例えば、同じ集団主義文化でも、北の日本はタイトであり、南の微笑みの国のタイはルーズというわけである。

 本書は、Gelfand et al. (2001)の調査結果をベースにしたものだが、それによれば、北のタイトな文化・南のルーズな文化という枠組みが必ずしも当てはまるわけではない。残念ながらタイは彼女たちの調査対象に入っていなかったが、その近くのマレーシア、シンガポール、インドは軒並みタイトな文化のようである。また、直感的に私がルーズだと思っていたメキシコやイタリア、ポルトガルなども比較的タイトである。必ずしも北がタイトで南がルーズというわけでもなさそうだ。なお、日本がタイトな文化の国であることは、トリアンディスの推定通りであった。

 ゲルファンドによれば、文化をルーズなものにするかタイトなものにするのかに最も大きな影響を与えるのは、脅威の多寡である。つまり集団に対して脅威が大きければ、人々は生存のためにさまざまな規則を守らざるをえず、また制度文化として明示的にせよ暗黙的にせよ厳しい規則や法律が定められて、タイトな文化が形成されていくというわけである。脅威には、災害や飢饉、疫病の蔓延などの自然の驚異もあれば、隣国からの侵略などの歴史的な脅威もある。ただ、そうすると日本は、地震は多いが、大陸性の大干ばつなどの経験は比較的少ない。また、大陸国家のように隣国からの侵略もほとんどなかった。この条件で日本がタイトな文化の国になったとすれば、それ以外の要因も考えていかなければならないだろう。また、現在、非常に大きな脅威を受けているウクライナは、歴史的にも隣国からの脅威が多かったと思うが、もっともルーズな文化の国という結果であった。まだまだ議論の余地がありそうな研究領域である。