2018年2月1日木曜日

大河ドラマ「西郷どん」と「翔ぶが如く」


 2018年の大河ドラマ「西郷どん」がスタートを切った。なかなかおもしろくて、日曜日を楽しみにしているのだが、現時点での私の個人的な感想は、「何かが足りない、でも何かが余っている」である。この評価が妥当かどうかという自信はないが、どうしても比較してしまうのが、1990年の「翔ぶが如く」である。

 「翔ぶが如く」はドラマも原作もともにすばらしかった。司馬遼太郎の歴史小説は、歴史家から見ると誤りもあるのかもしれないが、どれも登場人物が設定された時代背景の中でとても生きいきと描かれており、後続の小説家がこれを超えたものを書こうとすると、どうしても二番煎じか、何かを付け足さなければいけない。残念な事件に、池宮彰一郎の「島津奔る」が、司馬遼太郎の「関ケ原」との類似の問題で絶版になったことがある。「島津奔る」はなかなかおもしろかったが、関ケ原からの撤退の場面が「関ケ原」と酷似していたのだ。私も読んだときにそう感じた。司馬遼太郎を超えようとすると難しいのであろう。「西郷どん」の原作の林真理子も、よくこの困難に挑んだものだ。

 「翔ぶが如く」は、俳優たちもすばらしかった。西田敏行の西郷、鹿賀丈史の大久保は言うまでもないが、実力派俳優が綺羅星のごとく魅力的に役割を演じ、みごとな群像劇にもなっていた。非常に印象に残っているのは、村田新八を演じた益岡徹である。益岡さんは、ちょっと気弱な中年男を演じさせたら絶品だが、「翔ぶが如く」では、颯爽として、人情に厚く、飄々とした薩摩隼人を見せてくれた。幕末の薩摩にこういう志をもったこんな雰囲気の下級武士がおそらく存在したのだろうという、歴史的リアリティを感じさせる演技だった。また、西南戦争の薩摩軍幹部の中の唯一の文官として、軍服ではなく、フロックコートにシルクハットで出陣したが、あのカッコよさにしびれてしまった記憶がある。西南戦争最後の城山では、洋行中にマスターしたアコーディオンを弾き、西郷の死において「ああ天なり」とつぶやき、そして自刃した時は、あれだけ時代を読めていた人物がなぜここで命を落とさなければならなかったのかと、かなり目頭が熱くなったのを覚えている。

 2018年大河ドラマ「西郷どん」に、「翔ぶが如く」に出演した俳優が出演している。ナレーションの西田敏行と島津斉興の鹿賀丈史をはじめ、前回は画家役だった雷竜太が調所広郷、大村益次郎役だった平田満が大久保利世と、当時を思い出しながら見るのも楽しい。平田満は、有村俊斎の一味に暗殺されたおそろしく偏屈でとりつくしまもない大村を演じていたが、今回の大久保利世では、全く違う顔を見せている。

 何かが足りない、でも何かが余っている。この直観をもっとうまく言葉で表現できたらいいのだが、現時点での評価は、1990年の「翔ぶが如く」と比較した上でのものである。「翔ぶが如く」を超えるのかどうかは、今後の展開次第だろう。

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